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創業の歩み

第一章<創生期>すべては母を思う気持ちから

  • 昭和二十一年(1946)、戦争により荒廃した函館中心部をさけ、大桃ゑきえは当時、一面が畑であった湯川の地に、民家を譲り受け、夫と年老いた母とともに移り住み、十六歳の頃から始めた芸者をしながら、 戦後の混乱期を必死で生きた。
    当時、隣にあった湯川の老舗旅館「高砂」に、年老いた母を温泉に入れた いとの思いから、三年間、雨の日も雪の日も毎日通い、頭を下げてお願いし、やっとの思いで五十石の温 泉を分けてもらう。
    これをきっかけに、昭和二十四年、客室五室、温泉五十石にて温泉旅館『竹葉』を営 む事となる。

    旅館を始めるといっても、旅館経営の知識・経験はまったくなく、さらに当時は、他の旅館から教えを乞うというようなことはできなかった。
    そこで救いの手を湯の川温泉旅館組合に求めた。
    ゑきえの人柄にほれこんだ、湯の川温泉旅館組合の方々は快くゑきえの頼みを聞き入れ、旅館経営のイロハを教えてくださ った。

    開業と同時に、函館で一、二を争う程の腕をもつ料理人、木村重次郎(後の函館割烹調理師組合理事長)を料理人に迎え、温泉旅館『竹葉』の基礎基盤が築かれる。木村重次郎を料理長として迎えることにより、竹葉の料理は美味しいと評判になり、宿泊客も徐々に増えていった。

第二章<繁忙期>日々の努力と研究心をもって


  • 「純和風旅館」を目指していたゑきえは、『竹葉』開業以来、毎年のように京都の老舗旅館を訪れた。飛行機などまだないこの時代、函館から京都まで行くには莫大な費用と時間が必要とされた。
    しかしその費用と労力をもってまでしても、ゑきえが京都へ足を運ぶのには理由があった。
    それは京都の宿には『竹葉』が目指すべき宿の精神、サービスなど全てが揃っていたからである。ゑきえは自ら最高の料金を支払い、最高のサービスを受け、京都の老舗旅館の“もてなし”を身をもって体験し、それを自分自身の肥やしとして旅館経営へと生かし続けたのである。
    京都で得た知識・経験をゑきえは即座にお客様へのサービスとして還元していった。

    また京都への旅の際には、必ず東京の旅行代理店に立ち寄り、自らが『竹葉』の広告塔となり地道な営業活動を続けた。
    その甲斐あって、本州からの団体旅行客は徐々に増え続け、旅館経営もなんとか安定してゆくこととなる。

第三章<現代>そして、ゑきえは竹葉の至宝となった

  • ゑきえが病の床についていた昭和六十二年夏、その日は、『竹葉』開業以来お世話になっていたお得意様の宴が催されていた。
    食事も満足にのどを通らない状態の中、普通ではお座敷に出ることなど決して出来ない体にも関わらず、ゑきえは自らの死期を悟ったかのごとく「このお座敷にだけは出る」と周囲の反対を押し切り、お座敷へと向かった。

    病であることを悟られることを嫌ったゑきえは、病人とは思えないくらい、 背筋をピンとのばし、ビールを一杯だけ飲み干した。
    そして最後のご挨拶を済ませると、ふだんと変わらぬままその席を立ち去った。

    この年の秋、三十八年にも及ぶ『竹葉』での女将としての生活に別れを告げ、 ゑきえは静かに世を去った。
    そして今、二代目の西野テルに引き継がれた『竹葉 新葉亭』は、ゑきえが築いた「純和風旅館」という生い立ちはそのままに、新しい時代に対応しながら、今日もまた訪れる人たちに、心和む笑顔を投げかけてくれる。 ゑきえが築き、実践した“おもてなしの心”をもって…。